藤井美濃加茂市長ようやく保釈、完全無罪に向け怒涛の反撃

8月23日午後10時過ぎ、藤井美濃加茂市長の保釈請求の却下決定に対する準抗告が認められ、保釈許可決定が出た旨の連絡が入った。藤井市長の身柄拘束に対する弁護団の請求・申立てに対して、初めて裁判所の良識が示されたことがわかった瞬間だった。

6月24日の逮捕以来、①勾留に対する準抗告、②勾留延長に対する準抗告、③勾留取消請求、④その決定に対する準抗告、⑤同棄却決定に対する最高裁の特別抗告、⑥第1次保釈請求、⑦第2次保釈請求、⑧その却下決定に対する準抗告、⑨第3次保釈請求、⑩第4次保釈請求と10回にわたる弁護人の身柄釈放を求めるアクションは、ことごとく却下・棄却されてきた。

その中でも、弁護人にとって、特に許し難かったのは、今回の第4次保釈請求を却下した裁判官の決定であった。

刑事訴訟法により、勾留、保釈等の身柄の措置に関する決定は、一人の裁判官が行うが、それに対する不服申立てとしての準抗告が行われると、3人の裁判官による合議体での決定が行われる。

前回の第3次保釈請求では、8月12日の第1回公判前整理手続期日で、検察官請求証拠のうち、贈賄供述をしている中林の供述調書以外の検察官請求証拠をすべて同意することを書面で明らかにし、検察官立証に関する「罪証隠滅のおそれ」がなくなったということを記載した。それに対して、検察官は、「弁護側請求証人に関して、被告人からの口裏合わせ、証人への働きかけの可能性がある」などという、弁護側の立証活動を否定するかのような信じがたい理由を持ち出して保釈に強く反対した。そして決定を下す新米裁判官は、その検察官の意見を受け入れて保釈請求を却下した。

弁護活動すなわち罪証隠滅行為だと言っているに等しい、検察官の無茶苦茶な理屈を受け入れたこの却下決定を、準抗告、特別抗告で覆すことも考えた。しかし、第2回公判前整理手続期日が迫っていたので、検察官の理屈を前提にしても「罪証隠滅のおそれ」がないことを明らかにすることで保釈を得ることとし、弁護人立証に関して、新たにすべて供述録取書、陳述書を作成して、主張を具体化したうえ、検討中だった証人申請の一部については行わないことを明示したのである。

その上で行った第4次保釈請求だっただけに、さすがに保釈許可されることはほぼ間違いないだろうと考えていたが、裁判官と弁護人との面接で裁判官が示した態度、発した言葉は、これまた、信じ難いものであった。

同裁判官は、弁護人との面接において、「市役所職員に対する影響力の行使の点につき、弁護人の主張が具体化されていないことを検察官が懸念している」「請託の有無に対する弁護人の主張が具体化されていないことを検察官が懸念している」「主張を具体化したら、検察官も相当意見(保釈に反対しない意見)を書くのではないか」などと述べたのである。

裁判官は、弁護人の請求に対して、検察の意見を聞いたうえで、裁判官の立場で中立に判断するものである。それを、検察の意見に乗るのが当たり前とでもいうような態度・発言であったことに驚くとともに失望させられた。

弁護人は、主張が十分に具体化されていることや、具体的な罪証隠滅の態様が想定できないことなどを説明したのに対して、裁判官は「検討する」と言いながらも、保釈却下決定が出たのは、その面接の僅か20分後であった。最初から検察官の意見に追従することしか頭になく、裁判官としての独自の判断を示す意思がなかったとしか考えられない。

弁護人から、ただちに「怒りの準抗告」を行ったが、その中で、上記のような裁判官面接でのやり取りにも触れた。

このような裁判官の態度を見ると、否認事件の身柄拘束についての裁判官の判断が、全く裁判官としての独自性のないもので、単に検察官の判断を追認するだけになってしまっていて、それは、裁判所の構造的な問題であるようにも思える。

裁判官が検察官の意見に追従するというのも、検察官が、捜査を行った上で処分を決める判断者でもある起訴前の段階なら、まだ理解できないわけではない。しかし、起訴後は、検察官は、既に公訴を提起し、その事件の公判で立証を行う当事者である。否認事件であれば、有罪か無罪をめぐって、弁護人と対等な立場で主張・立証を行う立場になっているのである。この場合、検察官と対立する当事者の被告人の身柄拘束に対して判断を行う裁判官にとって、当事者としての検察官の意見は、単なる判断の参考に過ぎないはずである。

「検察官が懸念している」「~すれば検察官も相当意見を書くのではないか」などという言葉を口にする今回の裁判官は、もはや「判断者」ではなく「検察官の判断に対する取次窓口」であることを自認しているようなものだ。

刑事裁判官の判断のうち、証拠による事実認定や法律判断という判決を下すことについては、裁判官としての経験が重視される。その一方で、逮捕状の発布、勾留、保釈の決定などには、裁判官としての経験年数は必要とされず、任官間もない未熟な裁判官も一人前の裁判官として判断を行う現状は、事実認定、法律適用などの「実体判断」を重視し、逮捕、勾留などの身柄拘束に関する「手続判断」を軽視する姿勢によるものだということを、ブログ【現職市長に「逃亡のおそれあり」として勾留決定をした任官後半年の新米裁判官】で書いた。

その点、今回の第4次保釈請求を却下した裁判官は、任官13年目のベテランであり、裁判官としての経験も相当程度に豊富なはずだ。しかし、その裁判官の態度と判断は、上記のとおりであり、新米裁判官であることの未熟さより、一層始末が悪いのである。

著書【司法権力の内幕】で、裁判所の検察官に依存する無責任システムを厳しく批判した、元裁判官の森炎氏と対談本を出版すべく、現在、対談を重ねている。その対談の中で、森氏が「裁判官が検察官の言いなりになっている」などと言われていることに関して、「そこは、言いなりになるというより、むしろ、積極的に検察にもたれかかりたいという精神性なのです。いや、『もたれかかる』ではなくて、『もたれ込み』と言った方がよいかもしれません。」と述べている。

まさに、今回の保釈請求にあたっての裁判官の発言は「検察へのもたれ込み」そのものであり、経験を経るごとにその姿勢が強くなっていくことを示しているように思える。それは、「経験不足」よりもっと始末の悪い、日本の刑事裁判官の悪しき精神性そのものの問題なのかもしれない。

基本的に、殺人や傷害、強盗や窃盗など検察の組織としての判断の健全性が期待できる一般の刑事事件であれば、身柄拘束に関する裁判所の判断の重要性も、それ程大きくはない。

しかし、【「責任先送りのための起訴」という暴挙】でも述べたように、本件に関しては、検察の権限行使の正当性自体に重大な疑問があり、検察組織のガバナンスにも問題がある。このような事件について、裁判所が果たすべき役割が極めて大きいことは言うまでもない。

今回の藤井市長の身柄の措置に関して、11回目にして初めて、裁判所の良識が示されたのであるが、ここに至るまでの、弁護人としての対応にかけた労力は膨大であった。

度重なる請求がことごとく却下・棄却されていることに、マスコミの側から「あまりに何回も保釈が通らないと、それ自体が『悪いことをやっている』というイメージで見られますよ。」と、有難い助言をしてくれる記者や「それにしても保釈が出ませんね。」などと皮肉交じりに言う記者もいた。

こうした中で、検察に人質とされている藤井市長を奪還するためには、主任弁護人の私を中心とする6人の弁護団の強い意志と結束が不可欠だった。

保釈許可によって、藤井市長の身柄を奪還し、美濃加茂市民の下にお返しできるのは、重要な一里塚である、しかし、戦いはこれからが本番である。

藤井市長を人質に籠城していた検察は、その人質を失うこととなる。その検察を一気に落城に追い込むべく、第1回公判に向けて、我々弁護団は、怒涛の攻撃を続ける。めざすのは、もちろん「完全無罪」である。

 

 

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